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電信柱の先の映像
「スプートニクの恋人」より抜粋

■「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的パラドックスに足をとられてしまうわけだ。つまり、純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによってーーその価値観や、間隔の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によってーー取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこで語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう。

■それは言葉というかたちをとらない何かだった。おそらくは言葉というかたちをとるべきではないなにかだった。ぼくとミュウは沈黙の中でいくつかのものごとを交換した。

■限りなく続く日常の中に再び足を踏み入れていく。そこにはぼくのための場所がある。ぼくのアパートの部屋があり、ぼくの机があり、ぼくの教室があり、ぼくの生徒たちがいる。静かな日々があり、読むべき小説があり、ときおりの情事がある。にもかかわらずぼくはもう二度と、これまでの自分には戻れないだろう。明日になればぼくは別の人間になっているだろう。しかしまわりの誰も、ぼくが前とは違う人間になって日本に戻ってきたことには気付かないはずだ。外から見れば何ひとつ変わってはいないのだから。それにもかかわらず、僕の中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている。誰かが、何かが、僕の中から立ち去っていく。顔を伏せ、言葉もなく。ドアが開けられ、ドアが閉められる。明かりが消される。今日がこのぼくにとっての最後の日なのだ。これが最後の夕焼けなのだ。夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。

■ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めている時のような気持ちだ。

te1501.jpg

The End_1501 城ヶ島 / Nikon D610

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