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写真のことについて語るときに僕の語ること
写真を「the end_○○○」とナンバリングし掲載していたものも、今回で1000枚目を迎えます。だからなんだといわれたら本当になんでもなくて、これからも今まで通り粛々と枚数を積み重ねていくだけなんだけど、それでもひとつの区切りとして。最近プラウベルマキナ670のおかげで、それはもうメラメラと写真熱が上がっています。それと「zine」という形で写真をまとめようとしたので、それもあって少し客観的に自分の写真を見れたし、近頃写真に対する気持ちが変わってきている自覚があるので、自分の整理の為にも書きとめておこうと思います。

子どもの頃、中高生の頃から写真を撮ることは好きだったぼくですが、特に専門的な勉強をしたとか、そうゆう仕事に就いたとかはまったくなく、独学といえばきれいなもので、ただ単純に撮って自己満足して、合ってるかどうかわからない知識や経験がだんだん増えていった。という、しごく固いアマチュア路線です。そんな中で、写真家のドロネムさんの存在は僕にとってとても大きく、それまでなかった根拠のある知識と技術、機材の種類や使い方、そして暗室プリント作業という経験まで。もちろん学校でも仕事でもないので、会話の中から情報を盗むレベルのものだったけれど、それでも独学でしかない僕にとっては、知らない事だらけで毎回すごくワクワクしていた。だけど「表現」という曖昧で答えのない世界。先人のドロネムさんからみたら、僕みたいなズケズケした勢いだけのキャラはうざかったかもしれないし、嫌な思いもしたことはあると思う。それでも今でも付き合ってくれてることは、非常にありがたいことだと思っています。ありがとう!

最近は撮影だけでなく、zineの製作にあたり昔の写真を掘り返していろいろ見ていた。それこそ黎明期とも言えない、知識もなーんにもなくただ撮っていた10代から20代前半。その頃の写真は痛々しい程ヘタクソで、勢いとノリだけの行き当たりばったりな写真ばかり。それはもう赤面必至で平常心では見れたもんじゃないんだけど、それはそれでどこか心に響く物がある。それが個人的な懐かしさでそう見えるだけなのか僕には分からない。だけどその頃写ってた人や物や風景を、今の僕にはその時のように撮ることはもうできないんだ、とゆう確固たる事実にかなり感傷的になる。もう戻れない青春時代のような。特にその頃の写真は、その時好きだった女の子がやたらと出てくる。それは結構な量で、その度にその時の記憶がよみがえり、それはそれでまた感傷的になる。時間がすごく経ってしまったということも実感する。10年以上前のそれはもちろん終わった恋なので、最近のその子の写真はまったくないんだけど、もし、もしも、今でもその子の写真をずっと撮ってたらどんな写真になってたんだろうと考えると、すごく興味深い。そしてもし、今の僕がその子の写真を撮ったらどうなるのかとか想像すると、単純にドキドキする。でもそれは撮れないもので、頭の中ででしか描けないものだから良い写真なのかもしれない。わからないけど。

話はずれたが、その後、僕の写真はドロネムさんと会ってから、だんだん変わっていった。それでも上手くなったか、といわれればまったく上手くなくて、なんか「数打ちゃ当たる感」が否めない。それでも写真の量は目を見はる物があって、全部改めて見直すのはすごく骨が折れた。写真をセレクトしてる時は当時の自分を恨みもした。。と思ったら、それから急に撮らない時期があったり、撮ってても明らかに雑で、適当で、なんか身のない写真ばかりの時期があった。そして今、最近のもやっぱり上手いか、といわれたら全然上手くなくて、なにか感じるかっていったらなんだか首をかしげるような曖昧な写真ばかり。僕はきっとこのまま満足することなく、写真を撮り続けるんだろうと思う。それはそれでいいんだけど。僕はテーマを決めたり、コンセプトを作ったりして撮ってない。そしてなによりもそこまで深く考えてない。いわゆる「作家性」に乏しい人間だ。だけど今回、zineという形態で、写真単体としてではなく連続して並べてみてみたら、すごく凡庸な意見だけど、写真に一種の物語性というかリズムが生まれなんか違って見えた。全然考えてないのに意味深になったりしたり、全然良いと思ってなかった写真が、良く見えたりメッセージ性があるようにみえたりする。そしてそれは逆もあって、面白いなあと思う。そしてあらためて「良い写真ってなに」ということについて考えてしまう。もちろん答えなんて出ない。だから深く考えない。

一連の自分の写真をざっくりだけど見直してきて思うこと。写真に限らず僕は基本的に自分のことを「偽物」だと思っている節がある。僕の廻りにいる作家性に溢れている友達に比べ、自分はナチュラルじゃないし、なんか取り繕ってる部分は否めないという自覚があるのだ。言葉にしづらいけど、本物の人(これは解釈がいろいろあるけど、僕の中では「外からではなく自分の内側から物事がにじみ出ている人、または、にじみ出ているということが感じられる人」の意)と話をしてると「お前偽物だろ」と思われてそうで話せなくなることが、最近はあまりなくなったけど少し前はよくあった。いわゆる劣等感というやつだ。この話をすると大体の人に意外に思われる。僕はすごく自信がありそうに見える人間らしい、けどそれは背伸びしてるだけだと思います。基本的に大体のことに自信がないんです。だけど、昔の写真から今のものまで見直してると、これはこれで良いんじゃない?と素直に思った。自信があるないじゃなく「これはこれで」という少し分けて考えられた感覚で、なんか楽になった感覚があった。それは一朝一夕ではなく、ある程度年月を重ねたからそう思う事なのかもしれない。なんでも続けることに意義がある、と思ってる自分ですが、写真もそうなのかもしれないと思った。それはとても主観でしかなく、自己満足でしかないことなんだけど。そうなると偽物が撮った写真たちも、どこか存在する価値のようなものを与えられ、そしてzineという形で登場する機会ができたのならば、きっと喜ばしいことだったんでしょう。ということにする。だからなんだろ、これからは少しだけ、自分を否定しないで、自信もって撮ってもいいんじゃないかな。。と本当に少しだけ思っています。

先に書いたけど、最近はプラウベルマキナ670という中判カメラをドロネムさんに譲ってもらい、精力的に写真を撮ってる。フィルム1本で10枚しか撮れないし、お金もかかる。だから一枚を丁寧に撮るようになったと思う。それはマキナだけではなく、35mmのカメラでも丁寧に撮るようになった自覚がある。それが良いかどうかはまた話が変わるので置いといて。マキナ持ったら35mmの頻度が上がるという変な状況になっている。そしてこれも意外なんだけど、最近あまり登場しないハッセルブラッドだったり、ペンタックス645だったり、なんとデジタルカメラの熱まで上がりつつある。なんかもう一回いろいろやってみようという気持ちと、今のスキルで昔使ってたカメラで撮ったらどうなるんだろう。というワクワク感があって素直に楽しい。それはきっとすぐ冷めると思うけど、そのあと落ち着いた所がまた一歩進んだ(戻った?)所かもしれないと思って、素直にやってみようと思ってます。

長々と書きましたが、こんな僕の写真を楽しみにしてくれてる変態な人も若干名いて、zineも欲しいといってくれた人がわりと多くて、励みになっております。こんな僕が写真のことを語るのは恐れ多いし、基本的にこんな僕でごめんなさい感はあるので、あまり写真についての思いとかは書いたりはしないんだけど、今回は1000枚までいったので!ということであたたかい目でみてください。次は2000枚の時にまた語ろうかな、その時どうなってるかは自分でも楽しみにしています!

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the end_1000 東京都庁 / PLAUBEL makina670

「THE END PHOTO」「PHOTO ARCHIVE」「Trinograph. INTERIOR」「Facebook」
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