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ロング・グッド・バイバイ
ブログをお休みしていた理由ですが、今回起こったことは僕にとってすごく大きなことで、正直なところ時間も意欲もなくなり、肉体的にも精神的にもブログの更新なんて不可能でした。今現在、結果だけを言うと問題はすごく良い方向に落ち着き、安心もしています。なのであまりネガティブで暗い文章にならない気がしたし、少しだけイメージができたので、ちゃんと書いてみようと思いました。どこまでいってもプライベートなことなので、ブログという公共の場でこうゆうことを書くのは、良いことなのかどうか僕には判断できない。だけど書かないと僕自身が整理もつかないし、どこか前に進めない気がしたので。

7月17日の早朝、母が倒れた。僕は両親と同居している姉からその知らせを受けた。僕はまだベッドの中にいて、けたたましく鳴っている電話をみて嫌な予感はしたんだ。そもそも朝早くに家族から電話がくるなんて悪い知らせに決まっている。だけど、ひととおり状況の連絡を受けた僕は、不思議と落ち着いていた。もしかしたらその日がずっと想像しては恐怖に脅えていた「いつかくるその日」になっていたのかもしれないのに、嘘みたいに冷静で、どこか他人事な自分がいた。

僕はこの一年くらいの間、死のことばかり考えていた。それだけ聞くとなんて暗いやつだ、と思うかもしれない。けれど決して自殺願望があるわけではなく、自分が死ぬ時、死んだ後のことをよく考えていた。夜、寝床に就いてから死のことを想像しては不安や恐怖に襲われ、寝られなくなったりしてた。それは自分のことだけではなく、母親にもいつかその日が来るということを想像しては、心を痛めていた。その日のことを想像すると、想像できないほどの悲しみと、解決しようのない不安を抱いていた。だけどそれはどこまでいっても「いつか」の話で、リアルなものではなかった。それが今回急激に、しかも超現実として僕の前に現れた。こうゆうことはいつだって嫌になるくらい急なんだ。女の子にふられる時と同じで。

僕はとりあえずフジ暴にだけ連絡を入れて、まず実家に帰り、もう一度状況を聞いてから病院に向かった。病院ではなんだかわからない手続きをして、なんだか変な扉をいっぱい通り、死の匂いのする病室に挟まれた廊下を進み、奥へ奥へと行った先のベッドに母がいた。横たわる母をみた第一印象は「こんなに小さかったっけ」だった。当日だから顔色は良くなかったけれど、意識もちゃんとあるし、なんか拍子抜けするほど元気だったんだ。その時から早く家に帰りたいと言っていた。その日は面会時間が限られていたのですぐ出なくてはならなかったけど、看護師から術後の具合を聞いて、とりあえず安心して良いということだけ理解して帰宅した。良かった、本当に良かった。

その時僕は、母が入院中は毎日病院に行くと心に決めた。となると仕事も実家ですることになるので、パソコンやら生活用品をとりに自宅へ一度戻った。自宅に着いて一息ついたら、張りつめたものが解けたからか、一人になったからか、その時になって初めて不安のような安心のような、なんだか分からないごちゃまぜの感情が僕を襲った。僕のまわりだけ酸素が薄くなったような感覚で、それは身体を震わせ、小さい嗚咽とともに涙がボロボロでてきた。梅雨明けしたばかりの夏の強い日差しが、部屋に差し込んでいた光景をすごく覚えている。母の容態はとりあえず安心して良いものだったのに、その時の僕は酷く混乱していた。それは今振り返って考えると、母のすぐそばに現実的な死があったこと、今まで想像上だったことが現実に起こり得たかもしれないという事実。そのことが僕を酷く混乱させてたんだと思う。たがが外れたように感情が表に出てきて、自我を屹立させることが難しかった。そして僕は同時に、とても自然に、この心の動きを書き留めておかないと、と思ったんだ。そして、写真を撮らないと、とも思った。そういう衝動的な気持ちがあった。泣きながらレンズをカバンに入れてたっけ。僕はそうゆう行為でないと、問題を昇華させたり、気持ちを整理することができないタイプの人間みたいです。結果、病室でも写真を撮ってるという、かなり空気の読めない人間になってしまい、ごめんなさい。

その後荷物を持ってまた実家に向かったけれど、その道程でも感情の起伏が激しかった。他人がみたら変質者にしかみえなかったと思う。僕は自暴自棄になりやめていた酒を買い、多摩川の河川敷で一気のみした。そうしないと立ってられなかった。母の容態は安心していい状態だったにもかかわらず、僕の思考はネガティブ中のネガティブに向かっていた。平日昼間の多摩川の河川敷でビールをあおって泣いてる34歳独身男性。通報されなくて良かった。その時の僕はとにかく現実を受け止めきれなかったんだと思う。僕はこの歳になっても、子どもの時のままなにも変わらず、末っ子の甘えん坊だった。泣いて駄々をこねれば状況が良くなると思っていたのかもしれない。

その後、たった10日間の入院生活だったけど、連日様子をみに病院へ行った。もともと仲は良い方だと思うけど、母と二人きりで家の外で話をすることはあまりなかったので、新鮮でした。その場所が病院ってのが少し複雑な心境だったけど。入院といってもみるみる回復して、素人目にはすぐにでも退院できそうだった。でも念には念を押しての入院生活だった。幸か不幸かいかんせん元気な母は、時間を持て余してて相当暇そうだった。ある日、病室に入った時カーテンが開いてたので覗いてみたら、ベッドに横向きにちょこんと腰掛けて、窓の外をぼーっと眺めてる母の背中があった。僕はその後ろ姿を少し眺めていた。先に書いたけど、こんなに小さかったっけ、とか。歳とったな、とか。その光景が妙に印象深くて、今でも脳裏に焼き付いている。これが最後じゃなくて良かった、と思った。

最初に書いたとおり、結果はすごく良い方向に落ち着きました。大きな病気だったけれど初期のもので、処置も早かったこともあり、今では前より元気になってるくらいの母がいる。病気がきっかけで母も健康を気にして生活してくれるようになったし、そもそも後遺症が残るという病気ではないし。生活に軽い制限はあっても、気をつけた方が良い食事、適度な運動など。病気してもしなくても「老若男女が健康になるために気をつけないといけないレベル」のことで済んでいる、と僕は勝手に思っている。もちろん結果オーライだから言えることなんだけど、これはもしかしたら病気がくれたプレゼントなのかもしれない。今までの母はどこか生きることに投げやりで、冗談っぽくだけど「もういつ死んでもいいの」的な発言があった。その度に僕は、なんとも言えない悲しい気持ちになってたんだけど、病気をしたことがきっかけになったのか「せっかくだからもっと生きたい」と笑顔でいうようになった。それは僕にとってすごく嬉しいことでした。それに「孝行のしたい時分に親はなし」という状況にならないで、まだなにかしてあげられる状況でいてくれることは、僕にとっても病気からのプレゼントだったかもしれない。いつも僕は気付くのが遅すぎて、気付いた時にはもう手遅れになってたりすることが多いので。女の子にふられる時と同じで。

今では日常に戻りつつあるけれど、今回のことを忘れずに、まだ会えるうちにいろいろしてあげられればと思った。きっとなにをしても、どれだけやっても、いつかくるその日に僕は「なにも親孝行してあげられなかったな」って後悔して泣くんだろう。だけど、それでも、何もしないよりはできる限りしてから後悔したいと思っています。退院後、実家に様子をみにいった時に「またご飯を作ってあげられて良かった」と僕に笑って言ってた母。僕もハハハと笑って流したけど、僕はあの時の味をずっと憶えてると思う。いつまでもずーっと元気で、というのは現実的に無理な話なのはわかってる。だけど、それでもずーっと元気で笑っていてくれてたらいいなと思う。心から。

振り返ってみると、母が入院してから今までいろんなことを考えていた。それは今回のことが起こる前、死について想像してたことの発展型かもしれない。人の命は、長くても100年ぽっち、短い人で50年、もっと早い人もいる。その短い年月の中で人間は、自分が生きていたアリバイみたいなものを残そうとする。僕はここにいたんだ、存在したんだ、って。それは子孫だったり芸術作品だったり、資産だったり、恋人だったり、友達だったり。自分が死んだ後も自分のことを思い出してくれる人がいる、そう思いながら死ねること。そんな人生がもしかしたら幸福なのかもしれない。きっと自分が思っているより人生は短いし、振り返ればあっと言う間なんだろう。その短い人生でそうゆう人や物を残す事。シンプルにそれでいいのかもしれない。僕は、母にとってそうゆう人になれてるのかな。入院中、母がいつも居る部屋や台所に、当人がいない光景を眺めていた。いるべき人がいないその空間はどこかガランとしてて、時間が止まって見えた。それはいつかくるその日の予行練習のように思えてしまい、僕はまたひどく感傷的になった。母が使っていた裁縫道具だったり、読みかけの小説だったり、好きな花だったり、どれをみても悲しかった。死というものは、ただ単純にこの世界からいなくなるということじゃないみたい。いろんなものに母の雰囲気が残っていた。でもこれはあくまで僕が感じているだけであり、僕がそう感じて、心を痛めていることが、母に伝わっているかはわからない。もしかしたら、本当の親孝行ってのはそれを伝えることなのかもしれない。でもそれは言葉にするものではないし、きっと言葉にしても伝わらないもののような気がする。言わなくちゃ伝わらないものは、言っても伝わらない。よね。

頭の悪い僕にはどうやっても「死」なんていう大きな問いに、これという答えは出せない。死ぬ時にわかるのかもしれないけれど、とりあえずの所まだ順番が来る予定はない(はず)僕が今できることは、もうすでにいない人や、これからいなくなるかもしれない人達を、忘れないことが大切なんだと思う。それは言葉を変えると「人に対して誠実に」というものに変わる気がする。そして人に対してちゃんと、さようならを言って生きて行くことかもしれない。「一期一会」という言葉の本当の意味が、最近になって少しだけ理解しかけています。言葉に出さなくても、心の中で「さよならまたね。きみのこと忘れないからね」ってね。

今回起こったことは良いことと言えるものではなかったけど、病気があったからこそ考えること、気づけたこと、そして結果的に母親も健在だということ。すべてをひっくるめると、良かったことの方が多いかもしれない。そしてこの文章を書いてどこかスッキリしてる自分がいます。今回のことの前と後で、僕は少し違う人間になっているはずです。失ったこともあるけれど、得たこともあるみたいで、良い方向か悪い方向かは置いといて、これからまた前に進められる気がしています。「生きるとは」なんてまだ僕には分からない。だけどもしかしたら、生きるとは、泣きながらでも歩いていくことかもしれない。

駄文で失礼しました。これを機にブログ、再開すると思います。それはまた、お時間ある時にでも覗いてみてください。

te968.jpg

The End_968 川崎 / Nikon F3

追記
僕も元喫煙者だったので、僕の廻りの喫煙者にはあまり強く禁煙を勧めていなかった。あくまでも個人のことだし、自分の身体のことだから、自分で決めればいい。でも早く気付いてほしいな。。と思っていた。でも今は少し心境が変わっています。どんなに嫌がられても、ウザがられても、禁煙を勧めようと思っています。僕の廻りの人たちで今でも煙草を吸っている人、いますぐにやめなさい。万人に言うつもりはない。どこかの遠い知らない人が煙草で死んでも、吸ってたのが悪いんでしょ?と冷たく言える。だけど僕の近くの大切な人が煙草なんてクソくだらない物で病気になる、または死ぬ。そんな光景を僕はみたくないし、無理矢理でも吸わせないように奪い取ればよかった、なんて後悔もしたくない。病気になってからやめても遅いんだよ。ここまで来たら一緒にじいさんばあさんになるまで生きよう!と思っています。もう一度言おう。煙草なんてクソみたいにくだらない物で死ぬなんて、クソみたいだよ。

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