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ずっと眠っている
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「石川寛 / 好きだ、」

好きで何回もみている映画。石川寛の別の作品「tokyo.sora」「ペタルダンス」も静かで好きな映画です。
「好きだ、」をみてこの監督を好きになったんだった。でももう10年前の映画なのね。。

お互いに好意のようなものを持っているのに、言葉に出来ずにいる17歳のユウとヨースケ。河川敷でギターの練習をしているヨースケに会いに行のがユウの日課だった。ユウの姉、サユリは半年前に恋人を事故で亡くし失意の底にいた。だけどサユリはヨースケに会っている時、ほんの少しだけ元気になっているように見えた。それからユウは姉に気を使い河川敷にいかなくなる。

こんなに静かな映画なのに退屈しないのは、多くの要素が個人的に好みだということ。
まずキャスト。宮﨑あおいと瑛太、そして永作博美と西島秀俊。全員好きだ。
そして音楽。ほとんどBGMはないんだけど、ヨースケの弾くつたないギターの音が良い。
完成した曲が流れるタイミングも最高に地味で最高だ。

そしてそして、ロケ地は多摩川ではないけど、僕の原風景を彷彿させる河川敷の風景。
余計なものを肉付けしないでシンプルに心の動きを映像化する試み。そしてできた凪のような映像。
そうゆうもののほとんどがツボなんだけど、一番はやっぱり物語なのであります。
ここから多くを語ることになるので未見の人は読まない方が良いです。気を付けてるつもりだけど念の為。

この映画をみてると、僕が子どもの時「絶対に忘れない」と思っていたことも、実際キレイさっぱり忘れていることに気付く。
時間が解決することや、考えてもしょうがないということに、異常に反抗していた自分がいたことも思い出した。
誰かに決められることが嫌で、自分で何事も決めたいと思うエゴの塊だった。(それは今でもあまり変わっていない)
それが今は大きな意味で、惰性という流れに乗っていることと、それが意外と居心地悪くないということ。あの頃の僕がみたらなんて言うかな。

通しでみてると、人間は悲しみを積み重ねて生きていくものなんだなと思う。すごく悲観的に思われるかもしれないけど。
でも基本的に人生は圧倒的に辛く悲しいことの方が多いはず。透明で質量のない荷物をどんどん増やして歩いていくのだ。
村上春樹が言うように、人と人は傷や痛みによって繋がっているのかもしれない。
そして悲しみや痛みの共有でしか、本当の意味での調和はない。痛切な喪失を通り抜けない調和はない。ということかもしれない。

大人になったユースケとユウの年齢は今の僕と同じ35歳。だからこそ共感する部分はあった。
永作博美が泣くシーンがあるんだけど、これが静かですごく良かった。容れ物から水があふれ出るような静かな泣き方。
人にはそれぞれ容れ物みたいな物がある。その容れ物は色を塗ったりして見た目は変えられるけど、大きさは変わらない。
その容れ物はいろんな要因で、透明で質量のない中身が増えたり減ったりする。そしてたまに溢れる。その瞬間はきっと美しいものだと思う。

撮影は状況設定とゴールだけ決めて長回しし、演者から自然にでてくる空気感を待つという気の遠くなる手法。
できた映像には不思議な緊張感があって食い入るようにみてしまう。前半は特に、思春期の整理の付かない気持ちが出てます。
大人になった今、気持ちを言葉にするのはうまくなったけど、言葉にできなかったあの頃ほど純粋でないのはなんでだろう。
そして時間が経って変わってしまうものと、どうしても変わらないものって、やっぱり存在する。

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The End_1506 北千住 / Nikon F3

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ブラック・エントランス・ペンドナント
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The End_1505 羽田 / Nikon F3

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フォー・ビギナーズ
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The End_1504 渋谷 / Nikon F3

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子どもの歯のはえかわり
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「ソフィア・コッポラ / ロスト・イン・トランスレーション」

前に早稲田松竹でみて、なんとなく脳裡に残ってて、DVDで持ってたので正月休みに見直してみた。
ソフィア・コッポラって最近どないなことになってるんやろ。「somewhere」と「THE BLING RING」しかみてないけど。
「somewhere」のエル・ファニングかわいかったな。個人的にソフィア・コッポラの作品は好きです。
処女作の「ヴァージン・スーサイズ」みてない、面白そうなのでみてみる。

ハリウッドスターのボブ・ハリスはCMの撮影のため東京に滞在していた。彼は英語の通じない異国でひとり孤独を感じていた。そして彼と同じホテルに泊まっているシャーロットは、カメラマンの夫の付き添いで東京にやって来ていた。彼女も言葉や環境に馴染まず、仕事優先でほったらかしの夫もあり、憂鬱な滞在になっていた。彼ら二人はホテルのバーで出会い、この滞在において唯一安心感を抱ける存在として意気投合した。

前になにかで書いたけど、スカーレット・ヨハンソンってあんまりタイプじゃない。
それは外見の話だけど、演技という意味では彼女の出てるいろんな映画を観てるし、嫌悪感はないので好きなんだと思う。
なによりも彼女の声はすごく好きだ。スパイク・ジョーンズの「her」で声だけの出演をしてるんだけど、もうすごく好きだ。
あの声で静かに優しく怒られたい。と思うのは僕だけだろうか。

ソフィア・コッポラ作品は、わりと経済的に裕福な人たちで構成されている。それは彼女の生い立ちがそうさせるのかな。
この物語も「ハリウッドスター」と「売れっ子カメラマンの妻」という、とりあえず日々の暮らしに不自由のない二人。
やっぱり巨匠の娘というのが関係するのかしら。「somewhere」はもろに「有名なお父さんを持った娘」という自伝的映画だったし。
あんだけの巨匠を父に持ちながら映画を撮ろうとするのは、並の決心では出来なさそう。すねかじってる感じもあんまないし。あるの?

タイトルから想像できるかもしれない。まったく英語が通じない都市に拘束され、孤独を感じる二人の話。
新宿のパークハイアットで撮影されて、歌舞伎町、渋谷、代官山それに京都など、お馴染みの町並みが多く出てくる。
言葉が通じない異国の地で、時間的なゆとりもあるが為の疎外感や孤独感が、ひしひしと伝わる。
逆にそんな時だからこそ冷静に自分を客観視できたり、自分が欲しているもの、人生を俯瞰でみられるのかな。

この歳になると、海外で異文化の都市に身を置いて、時間も持てあますほどにあって、心地の良い孤独の中で自分を静かにニュートラルに戻す旅。
というものに憧れる。若い頃のように精力的に観光するのも疲れるし、なんかゆっくり静かにしたい。
これはきっと爺さん婆さんが熱海でしっぽりするのに繋がるものがあります。でもなにもしない贅沢って良い。
でもきっとそうゆう時に一番テンションがあがって精力的に動いてしまうのは、なにを隠そう僕です。まだ子どもみたい。

「どうして日本人はRとLの発音を間違えるの?」
「わざとに決まってるじゃないか。あれがあいつらのジョークなのさ」
ビル・マーレーと、スカーレット・ヨンハンソンの距離感がすごく良かったです。
二人がホテルの部屋で一緒に見るのが、フェリーニの「甘い生活」だった。どういう意味なんだろ。

海外の映画監督が日本をイメージして撮る。
どうしてもヴィム・ベンダースの東京画が出てくる。またみたいな。できればシアターで。

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The End_1503 多摩川 / Nikon D610

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高級娼婦の冒険
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The End_1502 押上 / Nikon D610

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電信柱の先の映像
「スプートニクの恋人」より抜粋

■「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的パラドックスに足をとられてしまうわけだ。つまり、純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによってーーその価値観や、間隔の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によってーー取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこで語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう。

■それは言葉というかたちをとらない何かだった。おそらくは言葉というかたちをとるべきではないなにかだった。ぼくとミュウは沈黙の中でいくつかのものごとを交換した。

■限りなく続く日常の中に再び足を踏み入れていく。そこにはぼくのための場所がある。ぼくのアパートの部屋があり、ぼくの机があり、ぼくの教室があり、ぼくの生徒たちがいる。静かな日々があり、読むべき小説があり、ときおりの情事がある。にもかかわらずぼくはもう二度と、これまでの自分には戻れないだろう。明日になればぼくは別の人間になっているだろう。しかしまわりの誰も、ぼくが前とは違う人間になって日本に戻ってきたことには気付かないはずだ。外から見れば何ひとつ変わってはいないのだから。それにもかかわらず、僕の中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている。誰かが、何かが、僕の中から立ち去っていく。顔を伏せ、言葉もなく。ドアが開けられ、ドアが閉められる。明かりが消される。今日がこのぼくにとっての最後の日なのだ。これが最後の夕焼けなのだ。夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。

■ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めている時のような気持ちだ。

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The End_1501 城ヶ島 / Nikon D610

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祝1500枚目
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The End_1500 / PENTAX67

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静かな日々と、読むべき小説
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「村上春樹 / スプートニクの恋人」

いままで読んでて、村上春樹の長編作品の中で苦手意識があった。
ビートニクをスプートニクと間違えた女ミュウと、彼女に対し竜巻のように恋に落ちた女すみれ。
女性同士の恋愛だからかな?でもこれ同姓愛の話ではないし、一応「ぼく」として第三者(ではないんだけど)も出てくる。
前に読んだ時は、なんだか序盤から物語に入り込めず、苦しみながらも読み切った覚えがある。でも今回は違った。

ちなみに、僕が今年みた初夢は「スプートニク2号に乗せられたライカ犬が宇宙空間で僕を眺めている夢」でした。
だから今年最初に読むのはこれが良いかな、、と思って。村上春樹再読イヤーの続きとしても良いし。
ライカ犬は物語にはほとんど関係ないけど、ライカ犬のことをいろいろ調べてみた。とても不幸な犬だ。
これから自分に不幸なことが起こっても「ライカ犬よりはマシ」と思えば乗り越えられる気がする。

あらすじに変えて、冒頭の1ページ目の文章がすごくすきなので、引用します。
そしてこの文章が語るように、ほとんどすべてのものごとがここに集約されている。

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。それは広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちのあるものを残らずなぎ倒し、片っ端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることもなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとに記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。

前に読んだ時、すんなり入り込めなかったのは、文章が一人称になったり三人称になったりするということが、理由の一つかもしれない。
それは「海辺のカフカ」もそうだけどあっちは辛くなかった。むしろハマった。章ごとに主観が変わる「甘いのしょっぱいの交互作戦」にハマった。
だけど「スプートニク」は、なんとなく一人称と三人称をぼんやり行き来する。一人称と三人称の文章は読む方も読み方も変わるので
曖昧に区切られてるとなんか嫌だった。章ごとにちゃんと分かれてるんだけどね、なんだろうなんか曖昧。でも今回読んでてそれは嫌じゃなかった。

となると物語にも自然に入り込んで行くわけで、結果的にこの作品の自分的ランキングはうなぎ登りである。
村上作品の特徴の「向こう側とこっち側」は大きな意味で一緒だけど、それが井戸や森ではなく今回は音楽だったりする。音楽はしらせで山か。
その舞台はギリシャのなんとかって言う島である。たぶんこうゆうのは何でも良いんだろうけど、そうゆうしかけの作り方が神がかり的にうまい。
昔なにかで村上春樹のことを「まったくあり得ない話を、なんとなくあり得る感じに語るのがずば抜けてうまい作家」と言う人がいた。同感。

最近は村上作品を読んだ後、解説サイトを読むようになってて、昔はそれがいわゆる「ハルキスト」みたいで嫌だった。知ったかぶりになるし。
最近はそれが楽しくなってきている。だからといって僕は評論家でも、研究家でもありません。そもそもそんなこと出来ないけど、一ファンです。
そうゆうサイトを読むと、合ってるかどうかは分かりませんが、全く気付かなかったことや、全然違う角度から物語を分析してることに脱帽する。
それがすごく説得力があってスキがまったくない「ぼく」が一番のキーマンだということ。村上作品には「根源的な悪」が存在すること忘れてた。

、、でもやっぱり一番は、物語にどれだけ入り込んだかなので、そうゆう分析サイトは食後のデザート的な感じにしておきたい。
あんまりね、難しくなっちゃうと純粋に物語を楽しめなくなってしまうので。
簡単な感想をいうと苦手だと思ってた今作も、僕の中ではかなり喪失の物語であり、読後感はもうしばらくポカーンとしてしまった。
この歳になってもまだ喪失できることに喜びを抱きつつ、次はなにで喪失しようか考えている。

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The End_1499 城ヶ島 / PENTAX67

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長いセンテンス、濃密な文章
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The End_1498 洗足 / PENTAX67

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土を掘るシャベル
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The End_1497 城ヶ島 / PENTAX67

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灰色の煙みたいな街
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「村上春樹 / 神の子どもたちはみな踊る」

阪神淡路大震災のあと「地震」が物語に関わってくるという共通点で綴られた短編集。
表題作はロバート・ログウェルによって映画化されている。ワンラック映画係として流してた時にちょい見してたんだけど
物語どうこうの前にナスターシャ・キンスキーの娘、ソニア・キンスキーをみるだけでドキドキする。
あの少し小悪魔的な美貌は母親譲りなんだろう。ぼくはナスターシャの方が好きだけど。

短編集なので、表題の作品だけコメントしようかな。他には「アイロンのある風景」が好きですタイトルも「使い道のない風景」みたいで良いです。ある新興宗教団体で「神の子」として育てられた善也が、雑踏で父親らしい男を見つけ後を追うというストーリー。善也の母親はかなり厳格な避妊をしたにもかかわらず幾度も妊娠し、ついに彼を生んだ。それを契機に母は新興宗教に入信していた。

悪い意味ではなく、とても気持ち悪い物語。この年に起きた震災と、地下鉄サリン事件の影響から
村上春樹の作品はガラッと変わって行くわけだけれど、この短編にもその雰囲気が伺える。
解説サイト読むと善也=ヨシュア=キリストらしい。母親が「完璧な避妊」をしたのに3度も妊娠したのは「処女懐妊」という意味だそうだ。
母親に対する性欲を抱いた善也は自分を責める。そして善也の心は信仰から遠ざかっていく。

すごく暗喩に満ちた、正直素直には分かんない物語です。眼鏡がない、腕時計が消える=こちら側じゃない世界にいるということ。
という分かりやすいものから、父親の姿を追いかけ行き着いた先の野球グラウンドで「神の子どもたちはみな踊るのだ」と言い、踊り出したりする。
全然嫌いじゃないけど、解説サイト読まないとわからへん。なんかこ難しいことしてるなー。という印象です。
この物語が素直に理解できると言う人は、ちょっと訝しげにみてしまうかもしれない。好きだけど。

デヴィッド・リンチ作品を一気にみてる時に、そのテンションでこれを読むと、なんとなく理解できるかもしれない。
理解できるというか、理解しているような気になれるかもしれない。わからない部分をうまく流せるコツをつかんでるだけかもしれないけど。

以下引用ー
善也の魂は今では、静かに晴れ渡ったひとつの時間とひとつの場所にたたずんでいた。その男が自分の実の父親であろうが、神様であろうが、あるいはたまたまどこかで右の耳たぶをなくしただけの無縁の他人であろうが、それはもうどうでもいいことだった。

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The End_1496 渋谷 / PENTAX67

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全打席ノーヒット
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The End_1495 渋谷 / PLAUBEL makina 670

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白い塔の夢
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「行定勲 / 春の雪」

三島由紀夫の遺作「豊穣の海」シリーズ1作目、の映画版。お正月休みにもう一度みたい映画をみようと思って。
行定勲って最近あんまり聞かないな。当時、日本の若手監督ではかなりに持ち上げられてた気がする。
僕はちょっとだけしか知らなくて「GO」と「ショコラの見た世界」くらい。
「ショコラの見た世界」は印象が良くて、あの舞台セットっぽい世界がおとぎ話みたいで好きだった。意外に思われるかもしれないけど。

大正時代。公爵家のひとり息子、清顕(きよあき)は小さい頃に公家の伯爵家に預けられ、令嬢の聡子と幼なじみの関係にあった。青年になり、お互いに密かに恋心を抱いていたにも関わらず、清顕は聡子への気持ちを素直に認められなかった。その為に、自分の本心とは逆の行動を取り、聡子を困らせた。しかし聡子はお見合いの話を全て断り、清顕への想いを貫こうとした。しかしそんな聡子に宮家(皇族)との縁談の話舞い込む。

あらすじだけを読むと、単純なラブストーリーに聞こえるかもしれない。
だけどこれは夢と輪廻と転生と壮麗で悲劇的な愛がかもしだす壮絶なスペクタクルロマンな物語。。のはずだった。
原作こんなんだったかな、、というくらい清顕のわがままっぷりに少しイラつく。この映画みるの二回目なのにイライラする。
好きな女の子をいじめてしまう~!的なレベルを超え、名誉毀損で訴えられるレベルの嫌がらせをする清顕。

でも聡子を失いそうになると惜しくなって急に優しくなる。その気持ちは分からなくもないけど、、なんせレベルが違うのだ。
聡子も聡子で怒ればいいのに好きだから許してしまう。そしてまた嫌がらせに悩まされる。
そんなことが続いていたが、宮家と聡子の縁談は別話だった。聡子は何通も何通も清顕に手紙を出すけど、清顕は全て無視する。
ここまで来るとさすがの清顕も固い意志があるんだろう。と思ったけど、やっぱり失いそうになると急に優しくなる。

人間の欲望というかもう、お子様レベルが超越していて、みてて笑ってしまった。
そしてやっぱり、原作の清顕ってこんなんだった?って思った。でも読み直すの億劫だな。。
後半は清顕も人間らしくなってきて(笑)彼の心理は手に取るように伝わってきて、感情移入もした。
なくしてみて初めて分かる、なくしたものの大きさ。そしてそうゆうものは二度と戻らないということ。

でも二人の愛は繋がっていて、今世で駄目なら、来世で。という美しく切ない話なんだけど、、、
「清顕はん、それ、自業自得ですやん!」という感情はやはり頭から離れない。
最初にかいたように映画は、行定勲のおとぎ話みたいな描写で怪しく、この世の物語とは思えない雰囲気を匂わせていた。
舞台のセットっぽいっけど、良い意味で夢うつつで、大和洋折衷な内装も大正時代という時代にもマッチしてて良かった。

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The End_1494 洗足 / PENTAX67

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きえた女
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The End_1493 多摩川 / Nikon D610

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山へいきたくなってきた
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」より抜粋

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさではなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものだ。

そのときもし違う判断をし、違う行動を選択していたとしても、いくらかの誤差はあるにせよ、僕らは結局今と同じようなところに落ち着いていたんじゃないのかな。そんな気がする。

あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが。でも僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない。

おそらく二度とこの場所に来ることはないだろう。エリに会うことももうないかもしれない。二人はそれぞれの定められた場所で、それぞれの道を前に歩みつづけることだろう。アオが言ったように、もう後戻りはできないのだ。そう考えると悲しみが、どこかから水のように音もなく押し寄せてきた。それはかたちを持たない、透き通った悲しみだった。彼自身の悲しみでありながら、手の届かない遠い場所にある悲しみだった。胸がえぐられるような痛み、息苦しくなった。

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The End_1492 劔崎 / PENTAX67

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