
「アレハンドロ・G・イニャリトゥ / バードマン、あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」
劇場でみたかったんだけど、行けなくてDVDを待っていた。
イニャリトゥ監督は僕の中でかなり好きな監督です。最近だと「Biutiful」昔だと「BABEL」「21g」とか
メタフォリカルな表現や、どことなく村上春樹(特にBiutifulが)を感じられて好きです。
現に監督は村上春樹の大ファンだそうだし。でも今回は先のイメージからしてエンタメ感が強いのかな?と思ってた。
かつての名優、ヒーロー映画「バードマン」で主役を演じ、世界的な人気を得た俳優リーガン・トムソンは、現在失意の底にいた。かつての人気は消えていた彼だが復活をかけ、ブロードウェイの舞台に挑むことになる。レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」であり、自らが脚本、演出を手がけていた。彼にとって再起がかかった大切な公演だった。リーガンはそのことでひどく精神的に追い詰められていく。
こ、こ、これはかなり面白かった。先に言うともうDVDを買ってしまった。イニャリトゥ監督のファンということもあるけど、
これから何度もみるだろうと思ったから。事務所でこれ上映会しようと思います。お菓子食べながら皆でみましょう。
エンタメ感が強いのかな、というイメージは心配することなかった。ちゃんと暗示的でイニャリトゥ作品だった。
たぶんレイモンド・カーヴァーの舞台の公演の話だから、そうゆうイメージが先行しちゃったんだと思う。
最初に書くのはやっぱり映像のことになります。2時間の映画、ほぼ一本撮り。または一本撮りのように撮っている。
これはかなり見応えがあって、今のどうゆう風に撮ってるんだろう?とかいちいち気になってしまう。
舞台裏の臨場感がすごく出てて、長回しだからこその仕掛けがいっぱいある。さっき話してた人が奥で走りまわってたりいろいろ気付かされる。
そしてその長回しに音楽がのっかってくる、直接的にも間接的にも。おもろい。すごく。いい。
冒頭からリーガンは苛立っていて、なんでか分からないけど超能力的なものを使える。
ここからすでに現実と幻覚の区別がつかない状況が始まっている。そして精神的に追い詰められていくリーガンがありありと見て取れる。
自分はもう昔の人、忘れ去られてた人間だと追い詰めてるけど、外を歩けばサインや写真を求められるし、人が集まってくる。
自分が思うよりもちゃんと人気があるのだ。まわりがまったく見えていない彼は、内的自己と外的自己のバランスがかなり崩れている。
「バードマン」の声がリーガンの頭に響く。それは「海辺のカフカ」のカラスと呼ばれる少年を思い出さずにはいられない。
リーガンはその声にかなり影響を受けている。それを二重人格と言ってしまえば簡単だけど、多かれ少なかれ誰にでもあることだと思う。
ここまでハッキリと人の声にはならずとも、自分の頭の中に違うもう一人の自分って居ると思う。居るでしょ?僕は居ます。
もちろん公演はリハーサルから本公演まで、いろんなことが起こる。そのたびにリーガンの顔色が変わるのが面白くてしょうがない。
前情報なしでみたから冒頭のカーヴァーの詩は「Biutiful」の時の海辺のカフカみたいに、なにかを暗示する節だと思っていた。
個人的にはそれだけでドキドキしていたけど、物語自体にカーヴァーがこれだけ関わってきてるとは想像してなかった。
「愛について語るときに我々の語ること」の舞台だったのね。その辺も村上春樹フューチャー感があるのは僕だけかな。
そうゆう所も、暗示的な所も、イニャリトゥ作品は良いのです。もっとヒリヒリした感じのみたいけど。撮らないかな、バベルみたいなの。
途中、リーガンと娘のサラが言い合いになるシーンがある。そのサラが父親に投げかける言葉がすごく印象的でした。
以下引用ー「目的は芸術じゃなくて存在のアピールでしょ。ネットの世界では誰もが存在を発信してる、パパが無視する場所よ。そこの流れは速くてパパなんてとっくに消えてるわ。何様のつもりなの?ブログもツイッターもフェイスブックもやらないパパは存在しない。私たちと同じね。無視されるのが怖いのよ、でも相手にされてない。芝居もパパも意味がないの。そこに気づけば?」
ネット上で忘れられるということは、人間の存在すらないものと同じ時代になっている。
もちろんこれは監督の問いかけで答えではない。僕はそんなことはないと思っている人間です。人間の存在がネットに左右されたくないと。
クリストファー・ノーランはスマホ嫌いだから映画の中にスマホが出てこない。
スマホのない時代、みな夢を抱いては空を見上げていた。だが今は小さいスマホの画面を覗き、みな下をむいている。と
僕もスマホを使っている。だけどこの中に物語はあるのかな、と常々思っている。
いつでもどこでも検索できて便利だ。だけどそれで得た知識は自分の糧になっているのか?脳みそにしっかり刻まれているか?と自問している。
なんかスマホだと便利すぎて染みこまず、自分の物にならない気がする。食事の時にスマホで検索する人もいる。その会話は有意義なものか?と思う
知らない事は知ってる人に聞けば良いし、分からなければ帰って調べてそこで得た情報をまた会って話せば良い。そもそも知らないままでも良い。
話はずれてしまいましたが、最近僕が思ってるネット、スマホの嫌なイメージが爆発してしまいました。
そうゆう意味でも投げかけがある良い作品です。って無理矢理な締め方かな。。
キャストについて。エドワード・ノートンは昔からのファンです、そして今回も怪演しています。
裸体をおしげもなくさらしていますが、ファイトクラブの時の様な肉体美は、、みてみてください。それもまた良いんだけどね。
そしてナオミ・ワッツ。マルホランド・ドライブの頃から若さの中にみえる、ちょっと枯れた感じが好きだったんですが、今作もかなり枯れています。
エマ・ストーンという女の子。知らない子だけどすごく良かった、遠目でみるとすごくかわいいです。言い合いのシーンは、みてみてください。

The End_1383 渋谷 / PLAUBEL makina670
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