
「村上春樹 / 恋しくて」
「バースデイ・ストーリー」に続く、村上春樹に選出された短編集。最後の一遍は彼の書き下ろし短編小説。
選ばれている短編は全て「恋」に関する物語で、最後には訳者のコメントが添えられている。
海外の小説家に疎い僕はこうゆうオムニバス形式のものってすごく便利。そして選んだのが村上春樹ならばなおさら。
今回ノーベル文学賞に輝いたアリス・マンローの一遍も収録されているので、今っぽくていいのでは。
村上春樹本人の短編「こいするザムザ」については、ぶっちゃけよく分からなかった(笑)
フランツ・カフカの「変身」の主人公、グレゴール・ザムザの後日譚(めいた)ものと本人は言っているが
僕自身カフカの小説を読んでない。「変身」は図書室にあった「まんが世界名作集」みたいなので読んだ記憶しかない。
なんか人間がクモになって「気持ち悪いな」と思った薄い記憶しかない。
「変身」を読んでいて、感化される部分を持っていて、この短編を読んだらまた違う印象だったのかもしれない。
けど僕には「?」でしかありませんでした。叙述的でよくわからん。
物語としてはリチャード・フォード の「モントリオールの恋人」の方が良かったかな。
海外の作家の作品読むときってなにか新鮮な気持ちになる。あんまり読まないだけかな?
以下引用ー
世界そのものがこうして壊れかけているっていうのに、壊れた錠前なんぞを気にする人がいて、それをまた律儀に修理しに来る人間がいる。考えてみればけったいなもんだよ。そう思うだろ?でもさ、それでいいのかもしれない。意外にそれが正解なのかもしれないね。たとえ世界が今まさに壊れかけていても、そういうものごとの細かいあり方をそのままこつこつと律儀に維持していくことで。人間はなんとか正気を保っているのかもしれない。。。文化的雪かき、という事?
毎年この時期になると受賞最有力候補だなんだとマスメディアを賑わす。だけど毎回選ばれない。
今年の賞はアリス・マンローに決まって、今年も村上春樹の受賞はならなかった。
いちファンとしてまあ残念。でも別にとらなくてもいい。でもとれたならそれは嬉しい。いちファンとしてね。
しかしテレビとかをみてるとなんだかいちいち騒ぎすぎで、単にまくし立ててるだけなような気もする。
そもそも本人ははそんなに受賞したいと思ってるんだろうか。。
「村上春樹はノーベル賞にふさわしくない」という意見もこの時期になると多くなる。
もともと好き嫌いが分かれる作家だし、批判されるというのはすごい事だ。
僕は頭が良い方ではないので、商業的すぎるとか、イデオロギーに欠ける作品だとか、言われてもぴんと来ない。
「ふさわしさ」というのはどこまでいっても(とくに芸術作品においては)明確な線引きというのはなく曖昧なものだ。
川端康成がふさわしかったのか。大江健三郎がふさわしかったのか。読んだ事があるが僕にはまったく意見出来ない。
「村上春樹がノーベル賞を取ると思ってる人は本当に村上春樹を理解して言ってる?」的な意見もすごく多かった。
「そんな事を本気で思う人の知性を疑う」という過激な発言もあった。頭に来たけど僕の知性は低いので認めざる得ない。
でも僕は彼の作品は全て読んでいるけど(たぶん)研究家ではない。ましてや哲学者でもチェスプレイヤーでもない。
ただ単純に彼の小説を読んで、自分も知らなかった心の奥にある何かが動いた。という事実でしかない。
それを明確な言葉にすることは出来ないだろう。そして明確にする必要もない。小説になにを求めてるんだろう。
彼の小説は「良かった」「おもしろかった」という言葉では言い表せないものがある。
でも「良かった」「おもしろかった」でいいんだと思う。「なんだかわからないけど好き」でも良いのだ。
そして読む前と読んだ後で、心の中の自分でも知らなかった一面に気づければそれは素晴らしい事なのだ。
彼の作品を読んでそうゆう一面に気付くことは多い。多分僕の中では一番多い作家だと思う。だからファンなのだ。
そもそも村上春樹の小説の内容を本当に理解して読んでるかどうかは、まったく関係がないかもしれない。
。。そして思うんだけど「本当の意味での理解」ってなんなの?
「言葉に出来ないけど好き」という方が僕は素直にいいなと思ってしまうのです。
それが知性が低いって事だよ、ってならそうなんだと思います。なんかごめんなさい。

The End_837 祐天寺 / Nikon F3
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